生命倫理学・医療倫理学

生命倫理学・医療倫理学 · 06

医師患者関係——開始・終了と境界線

Doctor-Patient Relationship: Formation, Termination, and Boundaries

🧠 全体像:患者関係は、始めるかどうかはの裁量に委ねられる(差別的理由や救急を除く)一方、終わらせ方には受託者責任が伴う——診療を引き受けた後は、一方的に打ち切るのではなく、患者が次のを確保できるだけの通知と引き継ぎが必要になる。病院の救急外来はこの個々のの裁量とは別に、EMTALAという連邦法で一律の応召義務を負う。贈答と性的関係という2つのは対照的で、贈答は関係性に応じた個別判断、性的関係はほぼ一律の禁止という扱いになる。

診療を始める義務はあるか

は、来院したすべての人を患者として受け入れる倫理的義務を負わない。は「誰を診療するかを選ぶ権利」を思慮深く行使すべきだとされる一方、この権利には限界がある。1

が診療を断ってよいのは、次の4つの場合に限られる。

  • 求められている医療が、の専門・診療範囲を超えている、科学的に妥当でないと分かっている、医学的適応がない、または意図した臨床的利益を合理的に期待できない、あるいはの深く保持された個人的・宗教的・道徳的信念と相容れない。
  • 安全で適切かつ相手を尊重した診療を提供するために必要な資源をが持たない。
  • その患者を受け入れることが、他の患者への診療能力を著しく損なうおそれがある。
  • 本人が・スタッフ・他の患者に対して虐待的または脅迫的である。ただし救急医療の提供が法律上義務づけられている場合はこの限りではない。

一方で、次のような理由による拒否は差別として禁止される。

  • 人種、性別、性的指向・性自認、その他診療上関連のない個人的・属性を理由にすること。
  • 感染症の罹患を理由にそれだけで拒否すること。
  • 特定の集団・カテゴリーに属する患者を一律に拒否すること。

救急外来を拒否できるか——EMTALA

個々のが誰を診るかを選べるのとは対照的に、米国では救急外来を持つ参加病院に、支払能力や保険の有無にかかわらない一律の応召義務を課す連邦法(EMTALA、42 U.S.C. § 1395dd)がある。2

flowchart TD
    A["救急外来を受診<br>(支払能力・保険の有無を問わない)"] --> B["適切な医学的<span class='jp-term jp-term-diagram' title='screening test'>スクリーニング検査</span>を行う<br>(支払方法の確認のために遅らせてはならない)"]
    B --> C{"救急医療状態が<br>認められるか"}
    C -->|"いいえ"| D["通常の対応"]
    C -->|"あり"| E{"当該施設内の人員・設備で<br>安定化できるか"}
    E -->|"できる"| F["安定化するまで治療を続ける"]
    E -->|"できない、またはより<br>高度な設備が必要"| G["適切な転送を行う<br>(本人・代理人による書面での希望、<br>または<span class='jp-term jp-term-diagram' title='medical doctor'>医師</span>によるリスク便益の判断が必要)"]
  • スクリーニング:救急外来を持つ病院は、来院して診察・治療を求めるすべての人に対し、救急医療状態の有無を判断するための適切な医学的を行わなければならない。
  • 支払確認を理由にした遅延の禁止:参加病院は、この検査を、本人の支払方法や保険の有無を確認するために遅らせてはならない。
  • 安定化義務:救急医療状態が認められた場合、病院はその施設の人員・設備の範囲で、状態を安定化させるための検査・治療を行わなければならない。
  • 転送の制限(患者の「たらい回し」の防止):安定化していない患者を転送できるのは、本人・代理人がリスクの説明を受けた上で書面で転送を希望した場合、または(もしくはの助言を受けた資格者)が、転送の医学的利益がリスクを上回ると判断した場合に限られる。より高度な設備を持つ病院は、受け入れ能力があるにもかかわらず、そうした転送を拒否してはならない。

⚠️ この義務は文字通り「すべての病院」に及ぶわけではなく、救急外来を持ちに参加している病院が対象である。もっとも、実務上は米国のほぼすべての病院がに参加しているため、事実上一般的な義務として機能している。

診療関係を終了させるには

は、いったん診療を引き受けた患者に対して、患者の継続的な診療を支える受託者責任(fiduciary responsibility)を負う。この責任は、診療関係を終える場面にも及ぶ。3

  • 患者(または正当な代理決定者)に対し、患者が別のを確保できるだけの十分なを持って事前に通知すること。
  • 適切な場合には、診療の引き継ぎを円滑にすること。

💡 この受託者責任は診療関係の終了時だけの問題ではない。診療関係を始める時点で、継続的な診療を妨げうる予見可能な事情があれば、はそれをあらかじめ患者に伝えておくべきだとされる。

患者からの贈答

患者からの贈答は、感謝の表明や文化的慣習として提供されることがあり、それを受け取ることが患者関係を深めることもある。一方で、診療上の配慮を得ようとする意図の贈答や、本人の心理的な欲求の表れである贈答もあり、こうした贈答を受け取ることは、すべての患者を公平に診療するの義務を損ないかねない。4

  • 贈答の価値が、患者またはの経済状況に照らして不釣り合いに、または不適切に大きい場合は辞退する(目安として、同僚にその贈答を受け取ったと知られても構わないと思えるかどうか)。
  • 贈答やその申し出によって、その患者への診療内容が左右されないようにする。
  • 患者からの遺贈は、それを受け取ることが患者の家族に精神的・経済的な負担をもたらすと考えられる場合は辞退する。そうした場合、遺贈の代わりに慈善団体への寄付を提案することもできる。

⚠️ この基準は、企業からのに定められた「に利害を持つ相手からの現金は金額を問わず一律に辞退する」という明確な線引きとは対照的に、関係性・状況に応じた個別判断を求めるものである。AMAの規定文自体は、この違いの理由を明示していないが、次のように理解できる。患者からの贈答は一対一の個人的な感謝の表れであり、企業の贈答のように多数のの処方・治療判断を組織的に方向づける仕組みではない。また、患者からの誠実な贈答を拒むこと自体が、治療関係を傷つけたり本人には拒絶と受け止められたりしうるが、これは製薬企業には当てはまらない配慮である。

医師患者間の性的関係

現に診療関係にある患者との恋愛・性的な関わりは非倫理的である。こうした関わりは診療の目的からそれ、患者の脆弱性につけ込むことになりかねず、患者の医療についてののな判断を損ない、結果として患者の利益を害しうる。が患者と交際・恋愛・性的関係を始めたい場合は、その前に診療関係を終了させなければならない。5

診療関係の終了後についても、白紙になるわけではない。以前の診療関係から生じた信頼・知識・感情・影響力をが利用する場合、または関係を持つことが予見可能な害を本人にもたらす場合、元患者との恋愛・性的関係も非倫理的とされる。は、性的・恋愛的な関わりにつながりうると考えられる、診療に関係のない接触についても、そのように受け取られる、あるいはそうした関わりにつながる可能性があると認識した場合は避けるべきだとされる。5

まとめ

  • は診療を断る裁量を持つが、その裁量は差別的理由・救急・特定集団の一律排除には及ばない。
  • 米国では、救急外来を持つ参加病院に、支払能力を問わないと安定化治療を義務づけるEMTALAが存在し、個々のの裁量とは別の一律の応召義務として機能する。
  • 診療関係の終了には受託者責任が伴い、患者が別のを確保できるだけの事前通知と引き継ぎの円滑化が求められる。
  • 患者からの贈答は、価値の大きさ・診療への影響・患者家族への負担という観点から個別に判断するが、企業からの贈答(一律に現金を辞退する明確な線引き)とは性格が異なる。
  • 現に診療関係にある患者との恋愛・性的関係はほぼ一律に禁止され、診療終了後の元患者との関係についても、以前の関係の利用や予見可能な害があれば非倫理的とされる。

出典

  1. 1.AMA Code of Medical Ethics, Opinion 1.1.2 — Prospective Patients(American Medical Association・2022)医師はすべての来院者を受け入れる倫理的義務を負わないという原則、拒否できる4つの限定的な場合、および人種・性別・性的指向・性自認その他の非臨床的属性に基づく差別の禁止閲覧 2026-08-16
  2. 2.Emergency Medical Treatment and Labor Act (EMTALA), 42 U.S.C. § 1395dd(Cornell Law School, Legal Information Institute(米国法典を再録)・1986)メディケア参加病院の救急外来に対する、支払能力・保険の有無を問わない医学的スクリーニング検査と安定化治療の義務、支払方法の確認を理由にスクリーニングを遅らせてはならないこと、および不安定な患者の転送に関する制限閲覧 2026-08-16
  3. 3.AMA Code of Medical Ethics, Opinion 1.1.5 — Terminating a Patient-Physician Relationship(American Medical Association・2022)診療関係の終了には、患者が別の医師を確保できるだけの十分な事前通知と、診療の引き継ぎを円滑にする義務が伴うという受託者責任(fiduciary responsibility)の枠組み閲覧 2026-08-16
  4. 4.AMA Code of Medical Ethics, Opinion 1.2.8 — Gifts from Patients(American Medical Association・2022)患者からの贈答について、価値の大きさへの配慮、診療への影響を許さないこと、遺贈は患者家族に負担を及ぼす場合は辞退すべきことという個別的・関係的な判断基準閲覧 2026-08-16
  5. 5.AMA Code of Medical Ethics, Opinion 9.1.1 — Romantic or Sexual Relationships with Patients(American Medical Association・2022)現に診療関係にある患者との恋愛・性的関係が非倫理的であること、および診療終了後の元患者との関係についても、以前の関係から生じる信頼・知識・感情・影響力を利用する場合や予見可能な害を生じる場合は非倫理的とされること閲覧 2026-08-16